週刊人生詰んだマガジン

フリーランスフロントエンドエンジニアTinyKittenのブログ

生い立ち

2018年のはじめになったので、今までの人生を思い返すため、今の気持ちを整理するために書きます。

珍しく真面目な記事、重い記事になるかと思います。見たくない方はタブを今すぐに閉じてください。

 自分は発達障害者です。群馬県認定の精神障害者手帳1級を持っています。

それもそれで、個人的には一生忘れられない思い出を持っています。

一生愛したいけど、一生恨み続ける人もいます。

これから、自分の人生について振り返ろうと思います。

0歳

自分が生まれた頃です。

髄膜瘤という病気で手術をしないといけない状態で生まれました。

母親は前に0歳の息子(兄に当たります)を乳児突然死症候群で亡くしました。そのため、精神的にだいぶ困憊、病んでいました。

その母親の次男を髄膜瘤の状態でNICUに連行される、さぞかし不憫な心境だったでしょう。

私は手術が失敗していたら死んでいた、今思ったら失敗するべきだった手術だと思っています。今でも頭の後ろに手術痕が残っています。

手術は無事に成功、しこりは群馬大学医学部附属病院に今でも保存されているらしいです。群大生の見ものになっているそうです。自分は大学に進学できないので関係ないですが。

1歳

兄を亡くした母親は精神的に未だに困憊している状態で、どうしても自分を育てることができませんでした。そのため、母親は祖母の家庭に私を預けました。いまでも私はこの事を仕方ないとは思っていますが、心からこの出来事を恨んでいます。一生忘れないかと思います。

2歳

初詣でチョコバナナを落として大泣きしたことを今でもなぜか鮮明に覚えています。

3歳

父親がクリスマスの日に祖母宅にゲームボーイを持って忍び込んだところを目撃しました。この頃からサンタは父親だと確信しました。

4歳

入園した頃かな?友達はそれなりにいたらしいです。全く記憶がない。

5歳

園長さんがサンタの仮装をするために体育館の裏で着替えているのを目撃しました。サンタってのは神出鬼没だなぁと思いました。

6歳

卒園の頃だろうか?小学生になることに恐怖を感じていました。

ただでも保育園の頃に人間関係に苦労したのに、進学して知らない人だらけになったら更に人間関係に苦労すると思いました。

7歳

小学校入学。親が祖母宅に来て小学1年生という雑誌を満面の笑みでプレゼントしていただいたことをよく覚えています。その後ランドセルを商店街に買いに行き、お気に入りのランドセルを祖父に買っていただきました。

実両親の笑顔が自分の感情に背いて滑稽で仕方ありませんでした。

8歳

記憶があまりありませんが、やはり予想通り小学校の人間関係には馴染めませんでした。

9歳

確か、このころからいじめが始まります。どうせ友だちがいないから助けを求める人がいないと思ったのでしょう。当然そうです。自分は耐えました。この頃から殆どの人を信用できなくなりました。そのほうが自衛のために楽だからです。

10歳

とてもじゃないけど耐えきれない生活でした。いじめられ、居場所もない状態。なぜか女子にだけはいじめられず、女子と関わりが多かったです。男子からはそれが気に食わなかったのでしょうか。ただし、人と関わることができないためそれほど会話もできず。その後、不登校になったのはこの頃だと思います。

祖母宅に住んでいる状態で、不登校になった孫を扶養するのは世間体的にまずいと思った祖母は、自分を両親宅に強制的に戻させました。本当であれば、ゲームの攻略情報をWebで調べさせていただく話だったのですが、帰ることはできませんでした。(祖母宅にはインターネットがない)帰りたいと泣け叫ぶ自分に、母親は「うるさい」と冷たい言葉を投げつけ続けました。(母親は覚えてないらしい)その後、母親が入院することに。自分は1ヶ月児童相談所に預けられることに。そこでは生まれて初めての彼女ができたり、大勢の友達ができたり、割といい経験ができました。

11歳

安定はしてきました。久しぶりに学校に登校したら、「おかえり!待ってたよ!」と5年生全員が窓際に出て、挨拶してくれました。仕込みもいいところだと思いました。

12歳

このあたりでフリースクールに通い始めました。今でも自分の心の拠り所の愛猫「ヨウコ」を拾いました。ネーミングは母親です。

13歳

中学校に進学しました。どうせ馴染めないと思いましたが、予感は的中。馴染めずにすぐ不登校に。

14歳

不登校を続けていましたが、父親の勧めで中学の特別支援学級「6組」に入ることになりました。楽しい経験と仲間を見つけることができたかと思います。途中からまた多少不登校になり、県内のフリースクール「はばたき」に通うようになりました。

15歳

6組に戻りました。しばらくし高校受験が近づき、6組の障害者向け教育に嫌気が差し、受験対策のためはばたきに戻りました。暫く特訓し、入試するための県内の定時制昼間部の作文の手伝いなどをしていただきました。その後、定時制昼間部の入試を受けましたが、結果は不合格。その後中学校の担任に「この後後期の夜間部に落ちたら君は工業高校行きだ」とアドバイスされ、定時制課程夜間部に合格しました。その後、「えんげき部」に入部し、演劇活動に興じてました。

16歳

高校2年でしょうか。もともとの体の弱さが響き、えんげき部を退部しました。その後は安定した高校生活を営みました。

17歳

 進学か就職かが迫りましたが、自分の答えは一つでした。都内の専門学校に進学です。きちんと単位を取り、都内の専門学校に進学。

18歳

いよいよ都内に引っ越して専門学生生活。最初からコミュニケーション能力不足で友達0人が3ヶ月ほど続きました。が、その後は続々と友だちができ、入学半年ほどはスクールカースト(笑)で中部ほどの友達の多さと人脈の多さを築きました。ですが、その関係は長く続きませんでした。もともと体の弱さと、コミュニケーション能力不足で友達はどんどん減っていき、追い込まれていきました。そのころ「オープンソースカンファレンス」というイベントに参加し、IT技術にどんどんのめり込むように。そのイベントに参加した女性と知り合い、今でも親友と呼び合える関係になりました。江戸川区の「健康の道」で一緒に歩いて語り合ったことは、些細ながら今でも心の支えだったと思います。

その後、学校を退学し無職へ。クラスメイト女性から来たLINEメッセージ「退学して無職とか夢精し放題だな?」は今でも強く覚えています。

19歳

県内に戻り、無職で途方にくれていたときに、県内のイベント「WordPressもくもく勉強会」を目につけました。その勉強会で、色んな人と出会い、人脈の大切さを学びました。その後人脈はどんどん広がり、知人の参加予定だったイベント「GIC」に参加しました。

そこで、県内のIT企業の社長と知り合い、3〜4ヶ月ほどバイトさせていただくことになりました。色んな経験をさせていただき、ほんとうに感謝しています。

20歳

地元のIT企業を退社し、東京のITベンチャーに転職しました。そこでも今でも関わりがある頼りある先輩と知り合いました。その会社でも、体調を崩したりコミュニケーション能力不足で迷惑をかけたかと思います。自分の体調と相談した結果1ヶ月で退社しました。

その後、数カ月後にとある業界人にお声がけいただき、出来たての企業に就職させていただきました。その会社では、いろいろな人生経験、フロントエンドエンジニアとしての興味関心をいただきました。ある部分では感謝しています。

21歳

リモートで暫く作業ししていましたが、神戸への転勤を申し出されました。神戸に転勤しました。

その後すぐに無理難題を企業に押し付けられ、それでは体調が持たないと自主退職を申し出ました。今でも微妙な心境でいます。

その後すぐに服薬による自殺未遂をしました。しかし、誰かわかりませんが警察に家を通報され、警察に止められ自殺は未遂に収まりました。

 

そして、いまを生きています。

 

色々とありましたが、人に支えられていまを生きていると思います。全てに感謝して、今生きているということを噛み締めて生きていこうと思います。